漁業研修に取組む水沼吾郎さん

毎年、三宅島漁業協同組合が行っている漁業後継者を育成するための短期研修事業。研修終了後に漁協に提出するレポートに「長期研修第1期生として後進の手本になりたい」と書き記した若者がいる。水沼吾郎さん(35歳)その人だ。彼はその言葉どおり、昨年11月から三宅島漁協の長期研修生となった。そして夢の実現に向け、黙々と、ひたむきに漁業に取り組んでいる。

島暮らしへの憧れと希望、三宅島へ

水沼吾郎

 彼の出身地は静岡県伊東市。海のそばで生まれたが彼にその記憶はない。幼いうちに東京都中野区に引っ越してから、高校を卒業するまで東京で過ごした。小さなころから船と海が好きで学生時代は野球に没頭するスポーツマンでもあった。高校卒業後、都内の企業に就職するが、島での暮らしに憧れ、小笠原や式根島で生活したこともある。三宅島に来る前は香川県の直島でカンパチや真鯛の養殖業に携わっていたという。

「直島での暮らしに不満はありませんでした。養殖の仕事は、毎日の業務時間や内容が決まっていて、作業が長引くと残業代がでました。」しかし、養殖業は、資金面や漁業権のなどの理由から個人が独立して経営していくことが難しいといわれる。「サラリーマンのような仕事を続けるうちに、将来は、海で独立して仕事をしたい、という気持ちがだんだん強くなっていきました。」 そんなとき、三宅島漁協のホームページで研修事業を知ったのだという。 「短期研修に参加してみると三宅島の様子や漁業を実感することができました。自分も独立して漁業をやっていけるのではないか、そんな希望がわきました。」

きびしい修業そして失敗

 長期研修は、大洋丸・古谷優さんの指導を仰ぐことになった。古谷さんは島で生まれ育ったベテラン漁師。研修とはいえ、師匠の指導は厳しく、まさに修業の毎日でもあった。 「船上での親方は本当に厳しい人です。」「初めのころは、親方から怒られてばかりいました。理由を説明してはくれないので、訳が分からず、かなり戸惑いました。でも、後から、ああそういうことだったのかと納得することばかりでした。」
慣れない環境での生活、生真面目な性格もわざわいしたのか、疲労がたまり陸酔いがなくならなったことも。そんなころ、不注意から失敗を犯してしまう。「操業が終わって港に向かう途中に時化(シケ)となり、魚倉に入れた魚どうしが擦れて傷んでしまったんです。海が荒れてきたときに氷を足して魚が動かないようにすべきでした。親方からはものすごく叱られました。でも、それより悔しかったのは、苦労して獲った魚を台無しにしてしまったことです。」
魚にも命がある。それを漁師が命がけで獲る。だから大切に扱わなければならない。それからは、疲れていても魚の扱いには細心の注意を払っているのだという。

漁の厳しさと努力が報われる喜び

 北黒瀬は三宅島から南東へ30海里ほどの沖にある浅い瀬である。年が明け、今年2月ごろから北黒瀬ではキンメダイの水揚げが好調となり、島の漁師たちは時化の合間を縫うようにして、この海域に船を走らせた。
 北黒瀬での操業は、午前1時半ごろ出港し、2時間ほど航行する。漁場までの往復は彼に許された短い仮眠の時間となっている。漁場についても周りはまだ暗く、手元の灯りだけで漁の準備をしていく。 水沼吾郎 親方は潮の流れをよみ、魚探の反応を探りながら水深400mから500mの瀬と呼ばれるポイントに船を廻す。一瞬、漁船のエンジン音が高鳴り船が海面に静止する。「いいぞ!」親方の掛け声とともに仕掛けを海中に下ろし、魚の食いつきをまってから巻上げる。仕掛けの投入から巻上げまでおよそ1時間。この操業サイクルを繰り返していく。通常は午後2時まで、魚の食いがいい時は4時ぐらいまで操業する。この季節の海は荒れることが多く、船上作業は危険を伴う重労働だ。操業が終わり、港に帰っても、水揚・出荷作業が待っている。家に帰るころには、とうに日が暮れている。翌日も凪であれば再び出漁するので、晩御飯を食べるとすぐに寝る日々。しかし、その甲斐もあってか、彼が乗船する大洋丸は春先までに何度か三宅島で1番漁を記録することになった。 「正直、きつかったですが、何度か大漁を経験することができて、本当に嬉しかった。」努力した結果が表れる、そんな漁業の魅力を感じているに違いない。「青黒い海の中から真っ赤なキンメダイがあがってくる様子はとても綺麗ですよ」と笑顔で語った。

仕事にも慣れ、島にもとけ込んだ生活

 半年が過ぎて沖の仕事にもなれ、親方から怒られることもずいぶん減った。潮の流れや海底地形に応じて自分なりに仕掛けの投入や縄の伸ばしかたを工夫してみると魚の食い付きが違うことも分かった。海のこと、漁のこと、魚のことをもっと知りたくなっている。最近では、漁場と港までの航行にはラット(操舵輪)を任されることも多い。 「はじめは親方からゴロウと呼ばれていましたが、最近はゴロウ君と呼んでくれるんですよ(笑)」

水沼吾郎

 時化の日は、陸で道具づくりとなる。仕掛けづくりに関しては、先輩の漁師に負けないくらい上手くなったとまわりからも言われる。「漁が休みのときは、親方と一緒に昼飯を食べるんです。ほかの漁船の船長も一緒に漁の情報交換したり、冗談を言ったりしながら。」 彼は無口でどちらかといえば人付き合いが苦手なタイプ。しかし今では知り合いも増え、島の漁師も仲間として彼を受け入れている。それは、彼の一生懸命に努力する姿勢が島の人々にも伝わっているからなのだろう。

彼の夢は島の未来へとつながっていく

 漁業は自然を相手にする仕事であり、マニュアルや教科書があるわけではない。独立するためには覚えなければならない技術や知識は山積している。そのことは彼自身が最もよく理解しているようだ。「沖で自分が魚探の映像を見ながら、漁船を操り、漁をやってみたい。」さらに「カツオやマグロの引き縄、イセエビの刺し網も覚えなければ。」と意欲的だ。さらに漁船の購入資金や経営資金をどのように貯めていくかといった現実的な問題も考えていかなければならないだろう。
 彼のまわりには、彼を見守り、アドバイスや時に厳しい叱咤激励をする親方や先輩漁師、漁協職員などの多くの人々がいる。「自分の船をもって、自分の力で漁をしてみたい。」そんな彼の夢は、彼が三宅島漁協の研修事業の第1期卒業生として活躍するという、みんなの願いにもなっている。そして、島の未来を指し示す光になり始めている。

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